"A級欠番"について

「宇宙の掌の中、人は永久欠番。」


昨年九月、北村想塾長からおしえてもらった曲がとても気に入った。
四月二十七日、Facebookからの通知、この日は"あいつ"の二十六歳の誕生日だそうだ。あいつとは六年前に初めて作・演出をした時に出演者募集のチラシを撒いたことが縁で知り合った。東京の高級住宅街出身で中高一貫の男子校に通っていたというええとこのボンボン。とてもそうは見えない下駄に丸刈という田舎者のような格好で打ち合わせの場に現れた。京大の吉田寮に住んでいてバンドでキーボードをしているという。打ち合わせの後、一緒に吉田寮の裏の銭湯に行った。風呂に入りながら僕は演劇における大先輩のことを散々こき下ろしてあいつに話したのを覚えている。「あんな奴いつか殺してやる!!」とか「絶対許さないよ!!」とか「何が※※※(個人名のため伏字)だ!!」とか「お前もそう思うよな!!っなー!!」とか。
当時自分は二十五歳、今のあいつとそんなに変わらない。あまりにも大人気ない言動だった。きっとあいつは「こんな人と芝居をしても大丈夫なのか?」と不安になったに違いない。案の定、稽古がうまくいくはずもなく四時間ほどで書いた戯曲は評判がすこぶる悪く現場の空気は終始ドッチラケであった。直前に話そのものを書き換えることを強いられるわ俳優と喧嘩別れするわでもうテンヤワンヤになった。その評判の悪い戯曲は「僕たちの友人が死にました。」「あまりにも突然に逝ってしまったんです。」こんなモノローグで始まった。その死ぬ友人役というのが他ならぬあいつだった。なんとか無事に公演を終えることができたがあいつに悪いことをしてしまったなととても後悔した。
去年の夏、ダンスの合宿にあいつと一緒に参加することになった。久しぶりに会うのを楽しみにしていた。合宿の一週間前、あいつは死んだ。アパートの屋上で首を吊っていたそうだ。タチの悪いドッキリだろうと思った。モニターで僕の様子を見て今頃控室は大爆笑なのだろうかと本気で思った。それは紛れもない事実だった。あいつの死の一年後を目処に公演をすることにした。自分は上演からずっと逃げていた。自分もいつまで生きられるかわからない。「そのうちやろう。」は永久にやらないのだということに気づく。あいつが喜ぶかどうかはわからない。しかし、何故か自分がやらなくては申し訳が立たない気がした。自分は友人の死を良いように利用しているのかもしれない。罪悪感は常にある。自分があんな出来の悪い戯曲を書かなければあいつは死ななかったかもしれない。
「舞台あれっきりになっちゃってごめんな、俺さ、この気持ち持って生きていくことにしたよ。俺が生きている間はお前のこと忘れないようにするからなるべく死なないようにするから。良い戯曲書くから。ごめんな。」遺影を見るたびにそう思う。
"どんな記念碑も雨風にけずられて崩れ、人は忘れられて代わりなどいくらでもあるだろう。だれか思い出すだろうか。ここに生きてた私を" これも何かの縁でしょう。企画は"A級欠番"と名乗ることにした。
余談ではあるが"永久"ではなく"A級"であるのは、以前関わった某公演において関係者に些細なことで因縁をつけられ、ボロクソに責められたことがあったから。


"A級戦犯"

こういう人間が自分の子供時代を壊した。思い返せば自分の人生にはそんな人がたくさんいました。自分に責任を背負わせ「これはお前のためにしたんだ。」という人をたくさん見てきました。
自分を悪者にすることで自分の家族はバランスをとっていた。家族にとって自分はA級戦犯でした。言葉の響が気に入りました。そうだこれがいい。しかし字面が悪過ぎる。それならば組み合わせて

"A級欠番"


にしよう。人はそれぞれ"永久欠番"であると同時に"A級戦犯" でもある。ふっとそんな気がしたからだ。


「宇宙の掌の中、人はA級欠番。」


A級欠番 主宰 山野博生